肝っ玉かあさん

2024年10月29日

 

野毛の飲食店は、その成立のしかたがいくつかにわけられる。もともと関内で商売をしていたが、終戦後の連合軍の進駐、接収で野毛に居をかえた店もあれば、素人が突然始めた店もある。

野毛中央部にある「一千代」も、初めは母親が子どもを抱えて、生活のために小さなオデン屋を始めたのがきっかけだった。

関口千代江さん(83)。秋田生まれの体の大きな女性である。昭和七、八年ごろ、八王子の片倉でトラック四台を持つ運送業で、かなり手広い仕事をしていた。ご主人も健在で、いちばんいい時代だった。多摩にある大正天皇陵に、たくさんの杉苗を植えたのもこのころである。その後、夫婦で一度見にいったが、いい並木になっていた。

男まさりの千代江さんは、ご主人と同じように仕事ができたし、一生をそんなふうに過ごすものと信じていたのだが、ご主人は突然、事故で亡くなり、三人の子どもを抱えて、一から出直すことになってしまった。藤沢から横浜の初音町へ料理屋の台所仕事をしながら移り住んだ。その初音町で「横浜大空襲」に見舞われた。

このころがいちばん大変だった。それに、いま思うと毎日がばかなことばかりだった。戦争も押しせまったころ、町会を通じて縁の下に防空壕を掘るように指示があった。千代江さんも掘ったのだが、掘りながら疑問だった。

子どものころ、地面にイモを埋めて、その上でたき火をして焼いて食べたことがあった。ほんとうに空襲になり、上の物が焼けたら、こんなところにもぐり込んでいたって絶対に助からない。同じことをいっている人もいたが、文句でもいおうものなら、何をされるかわからない。せいぜい、せっせと掘るしかない。

しばらくして検査があった。合格だった。町会長からおほめの言葉をいただいた。出来の悪い物は注意されたり、やり直しを命じられたりしていた。ある時、千代江さんは、自分の作った防空壕に座ってみて、改めて絶対ここではダメだと思った。防空演習では、バケツリレーでほめられ、男性と一緒に担架を運んでほめられた。しかし、防空壕を作ってからというもの、こんなことはどうも役に立たないのではないかと、いつも不安にかられていた。

そして、横浜大空襲。千代江さんは子どもを連れて、山の上の関東学院の壕へ避難した。この壕へ入った人たちは全員無事だった。外へ出てみると、壕に入る階段には死体が将棋倒しのようになって折り重なっていた。

そして野毛に--。遊んではいられない。まわりを見ると、みんな小さな出店をやっている。千代江さんも見よう見まねで、住居のすぐ前によしず囲いのオデン屋を始めることにした。食べ物商売が手っ取り早いことと、料理屋にいたので、材料の入手についても多少の知識があったからだ。

始めてみると、やはり材料の入手は困難だった。闇市で多少の買い物はできても、それだけではとても間に合わない。リュックを背負って田舎を回ることもしばしばだった。

そんな店でも警察への営業届けは必要である。千代江さんは自分の名前と子どもを育てるための一代かぎりの仕事、という意味をこめて、この出店を「一千代」と命名した。

昼間から仕込んで、夕方売れるようにする。よしず越しに見る町は、やたらとゴッタ返し、行きかう人も泥棒でもしそうな顔つきである。「子どもが大きくなるまでは何としても」。口の中でブツブツくり返す日が始まろうとしていた。

 

 

 

 

野毛ストーリーより