移りゆく日に
野毛坂の中ほどに、「苅部書店」がある。屋号は「天保堂」。天保年間に鋳造された「天保通宝」ちなんでつけられた。
天保通宝は百文に通用させるつもりが八十文にしか通用せず、明治になってからは八厘の扱い。そして明治二十四年に廃止された。一銭に満たないことから、「時勢おくれ」「少し足りない」などの意味で使われることがあった。
「天保堂」主人、苅部正さん(53)はしかし、この屋号を時の流れの中で平然と受けとめている。今の「天保堂」が営業を始めたのは、昭和二十一年五月五日。野毛坂マーケットに戸板一枚の露店を開いたのがスタートである。横浜市から「文化商品も並べて欲しい」という要請があり、あちこちに呼びかけて十四軒の古本屋がそろった。
そのころといえば、伊勢佐木町の「有隣堂」も土地を米軍に接収され、本牧三渓園で大学ノートを売っていた時代である。「天保堂」はつながりがあって、東京の岩波書店までリュックを背負って仕入れに行き、帰ると店の前に行列ができていた。
野毛に最初の「天保堂」ができたのは、大正五年。篠田亮一という人によって開業された。この人は、昭和十七年、ガンで亡くなったが、関東大食災後に、有隣堂二階に有隣堂古書部をつくったころが初代天保堂の最盛期だった。
篠田は、信州から東京に出て来て、明治三十年に神田で古本屋を始めた。が、「出物」を手に入れるのは、東京よりも横浜であることに気づき、店を苅部さんのおじいさんから借りて、野毛に開業したのであるが、東京の古本屋の組織作りをするなど、幅広い活躍をした人だった。
篠田は筆の立つ人だった。大正二年の八月、「宇宙の進化」を出版し、出版業となった「岩波書店」が、その開店の時、店の看板を書いたのが篠田だった。岩波書店は、翌年「夏目漱石著作集」を出版して伸びてゆく。
焼け跡の「天保堂」に、岩波が本を卸したのは、このようなことに起因している。
一方、篠田に店を貸した苅部さんのおじいさん慶応元年生まれ)であるが。
その頃、日の出町に、長谷川寅之助という男が土建業をしていた。作家、「長谷川伸(本名伸二郎)」の父親である。苅部さんはこの男にいたく惚れ込み、「程ヶ谷宿」から野毛へと移って来た。そして、トビの頭、消防団長を動めることになる。
関東大震災前、大正期のこの時代、野毛は、江戸時代の延長のようにのんびりとしつつも、自然と人間が生き生きと反応し合える街だった。二つの寺とお不動様。野毛坂は門前町のにぎわいで、一日、十五日、二十八日は、朝の四時から参詣の人で、ひきもきらない。都橋の交番のあたりでは、舟つき場で、問屋が並んでいた。苅部さんのお母さん、光(みつ)さん(84)は、このころの生証人であり、先ごろ発刊された「中区史」に、たくさんの思い出話を寄せている。
震災後に、野毛の区画は現在のものとなる。そして、二回目の総入れ替え、昭和二十年の横浜大空襲による焼け跡からの復興は、それまでの十年を一年ですませるようなスピードで展開された。「天保堂」、苅部さんからは、大もうけの話も、血わき肉おどる話も出てこない。そのかわり、代々この地をジッと見守ってきたちょっと引っ込んだ姿が浮かぶ。苅部さんは現在、野毛のマンションに住んでいるが、年に二回ほど屋上から周囲の写真を撮り続けている。ファインターをのぞくと去年なかったものが、いきなり出現してビックリする。いつか、その写真を必要とする人間が出てくるのではないかと思っている。
野毛ストーリーより