野毛坂マーケット(1) –肥後盛造という男 (大谷一郎)

2021年7月1日

 

昭和二十一年夏、焼け跡に国電が復旧した。桜木町駅前では連日、生活を賭けたこぜり合いが続けられていた。

近在から荷物を背負ってきて、駅前で炊き出しをする店が二十軒も並んでいる。商品は野菜クズにいろいろぶち込んだ「雑炊」「すいとん」。あまりの不衛生さに、占領軍の米第八軍からクレームがついた。しかし、警察は敗戦で生じた生活困窮には、真っ向からの取り締まりにためらいがあった。

追い払う。すぐに舞い戻る。このくり返しに、群察はついにバリケードを張りめぐらした。しかし、バリケードは瞬時にズタズタにされ、また営業が始まる。

打つ手のなくなった警察は、自主規制を求めるしかなく、この地域で戦前から少しは知られた男に調停を頼んだ。肥後盛造。三十六歳。生粋の露店商である。肥後は困った。桜木町周辺のことならよく知っている。が、何よりも生活が先という勢いは止められるものではない。「あの場所がだめなら、代替地を用意するしかないな」。

第八軍は振り替え措置として、野毛地区を指定した。野毛は、土くれさえも焼けただれていたのだが…。

「そうと決まればやるしかない。オレから始めるまでだ」。後に肥後の姉さんとして、面倒みの良さで若い者や町の人に慕われた住吉光子さん(78)はなけ無しの金を持って、戦災をまぬかれた京都へ仕入れに出かけた。

–肥後盛造という男。石川町の米穀商「肥後屋」のせがれとして生まれる。大きかった店は両親が相場に失敗して他人の手に渡った。盛造少年は、十歳のころ奉公に出された。しかし、生来のきかん気は、奉公先を転々と変えさせた。

紙問屋に奉公していた時、大八車に山積みした紙を「全部売ってこい」と命じられた。一種の制裁だったが、平塚まで引き売りして売り切った。

理不尽なことには必ず反発するので、同僚から南京袋につめ込まれ、殴るけるの制裁を受けるのもしばしば。だが一言も音をあげない。十五歳のとき、すでに「親分、親分」と慕う十三歳の子分を持っていた。

やがて神社の境内などでアメを売る露天商の親分「飴徳」に懇願され、二代目を襲名する。「飴船徳二代目肥後盛造親分」の誕生。十九歳だった。

さて、肥後は野毛動物園から下りてきたところにある交差点の四つ角を地ならしし、板を張って品物を並べた。光子さんは小声で「こんな所で、アナタ売れますか」。

「バカだなあ、おまえ。東京といやあ新宿、横浜は野毛と決まってらあ、ハハハ…。十日もしてみろ、びっしりと露店がならぶぞ」

肥後が見わたす一望千里の焼け跡の野毛には、人間どころか、ネコの子一匹歩いてはいなかった。

 

野毛ストーリーより