野毛街づくりの原点は隣町との共存共栄 -野毛地区街づくり会 平出揚治会長に聞く
「2020」。来年はいよいよ東京オリ ンピック・パラリンピックが開かれる年 です。その世界の祭典に先んじて供用開 始される新横浜市庁舎。野毛の盛衰に大 きな影響を及ぼすビッグ・プロジェクト の完成です。それと呼応するように今、 関内・関外でも街の姿を変えるような大 型の開発事業が相次いで動き出していま す。そこで野毛の街づくりの原点を、野毛地区街づくり会会長、野毛地区振興事 業協同組合理事長の平出揚治さんに聞きました。
-あの時、街をあげて、「廃線絶対反対」に立ち上がった のは当然のことでした
令和元年6月9日に開かれた野毛地区街づくり会総会で会長に再選されました。みなさまには引き 続きよろしくお願いいたします。
さて、街づくり会は昭和59(1984)年に設立されましたが、最 初の大きな試練に直面したのは、 東急東横線桜木町-横浜駅間の廃 線問題でした。昭和62年のことで す。街の最寄り駅を始発・終着とする電車路線が一本なくなることは、客商売 をメインとする野毛には致命的な打撃となります。ですから、街をあげて「廃線絶対反対」に 立ち上がったのは当然のことです。
街は騒然となりましたが、野毛はこのような中でも横浜市や東急 との話し合いのパイプを切ることはしませんでした。街の存立をかけた真剣な議論の中で出てきたのは、「横浜中心部の交通体系の再 編成を野毛だけの都合で反対していいのか」「横浜全体の発展あっての野毛の繁栄ではないのか」、そういう問題意識です。出された結論 は「条件付きの廃線容認」でした。
野毛の街づくりは以来、「隣町と 地区振興事 の共存共栄」が揺るがない行動規範となったのです。あれから30年 余。当初はやはり野毛の商売を圧 迫すると警戒していたみなとみらい事業の成功がなかったら、横浜のにぎわいはどうなっていたでしょうか。その中で野毛は生き延びられたでしょうか。今さらながら街づくりの先輩たちのあの時の勇気ある決断に敬意を表さざるを 得ません。
野毛で始まった大道芸がやがて 吉田町へ、伊勢佐木町へ、みなとみらい地区へ、そして今は行われ ていませんが関内・馬車道へと広がっていきました。野毛が隣町ともに歩むことを象徴する出来事 です。野毛地区ニュース第71号は、 関内・関外の開発状況を特集しました。もうおわかりでしょうが、 それは野毛とは関係ないニュース ではないからです。
そんな思いで今号を読んでいただければ幸いです。
できれば隣町のみなさんにも。
横浜市との信頼関係に立った提携も野毛の街づくりにとって大きな財産となっています。信頼は東横線廃線問題が起こる以前からの話し合いの積み重ねのなかで醸成されました。それは私たちはもちろん、歴代の市長さん、担当者のみなさんにも受け継がれています。
私たちはこれからも吉田町、馬車道、伊勢佐木町、横浜橋、関内、 元町、中華街と、それぞれの街の 特徴を活かした街づくりを競い合いながら、ともに横浜の発展を追求していきたい。隣町のみなさん、そして横浜市のみなさん、なにとぞよろしくお願 いいたします。
ラグビーワールドカップ日本大会が今、全国で展開されています。決勝戦の舞台ともなる横浜には世 界中からサポーターたちが集まってきています。私もラグビーが好 きです。その精神、「ALL for ONE/ONE for ALL」に強く共感するからです。日本語で言えば「みんなは一人のために、 一人はみんなのために」。これはまさに街づくりの精神そのものではないでしょうか。
(聞き手・野毛地区街づくり会広報委員会)