桜木町デパート[1] (大谷一郎)
「桜木町デパート」。今四十代なかばすぎの人たちは、忘れられない思い出を持っているに違いない。
あの百貨店ではない。二階建ての建物がすべて三坪に仕切られ、百二十コマからなる棟割り長屋式の飲み屋のデパートである。百軒以上の店が並んで営業していても、それぞれが自分なりの情を抱えているので、隣同士でも微妙に店の雰囲気は違う。出入りする客層も厚く、ひとつの社会すら形成していた。
デパートは、今のぴおシティと野毛の街の間道路「桜川新道」の道路上にあった。現在の交番の所の横断歩道がデパートの入り口。それから、牛井の吉野家の前あたりを通り、「桜橋」の手前あたりまで続いていた。千二百平方メートルという広大なものだった。
一月二日、正月早々というのに、デパートの一部はもう営業を始めている。一階通路の中ほどにある炊き出し屋である。元日、どこも休みで、何も口にできなかった港湾労働者が、もうもうとした湯気の中で、声をあげて食事をしている。
桜川新道は、その名前のとおり、元は川だった。当時、桜木町からの人波は、ぴおシティをまわり込むようにして、今の花咲町二丁目交差点あたりにかかっていた「みどり橋」を渡って野毛に入った。
まっすぐ日の出町の方に向かえば、マッカーサー劇場や野毛坂マーケットにつきあたるし、橋を渡って、すぐ左に曲がれば、桜川に半分身を乗り出すようにして、「カストリ横丁」「クジラ横丁」が並んでいた。
昭和二十二、三年ごろ、港の仕事といえば、米軍関係の荷役しかない。労働者たちは、仕事にありつけても、宿舎などは高嶺の花。大方は公園のベンチや駅の構内で寝起きしていた。そんな彼らが、寒さをしのぎ、人間性を取り戻すのが、この横丁だった。
昭和二十七年。桜川横丁は、埋め立てられ、川端の新築の桜木町デパートに生まれ変わった。川の風情はなくなったが、桜木町駅から野毛へは、今では想像もつかないような歩きやすい平面の道があった。
このころが、野毛の人出のひとつのピークであった。中央のマーケット、飲食店街、飲み屋の店なみ、さらに路上にも小さな出店がある。混然としながら、まるで、毎日縁日でもやっているようなにぎわいであった。
桜木町デパートの入り口の店は不二家で、お土産用のドーナツをあげていた。その前の歩道には、トタンばりの水槽がデンとしつらえられ、アゴに何本も針をぶらさげたウナギがゆう然と泳ぐ。わきで爺さんが、夏の日を浴びていた。高い建物が
まだなかったので、夕日は人々の影を長々とアスファルトに描き、やがて街は夜の準備にかかる。
昭和三十四年。亀井政江さんは二十七歳だった。結婚して三年目に離婚。一人っ子を手放し、失意のうちに桜木町デパートの一コマを借り受けた。
右も左もまったくわからない、不安な水商売の第一歩だった。
→つづく
野毛ストーリーより