食い逃げ名人 -サラリーマンA氏の告白
私は海岸通りの運送会社に勤めていて、勤続三十二年で無欠勤、自分で言うのも何ですが、真面目で優秀なサラリーマンです。
女房は見合いで貰って、それが結構な美人で子供は男二人、上は今年大学を卒業してある広告会社に勤め、下は六大学の一つに通っています。
人には「しっかりした良い家庭ですね」と言われますが、会社に入ってから付き合いで飲み始めた酒が暫くしたら大事な友達になりまして、毎日飲むようになってしまい段々帰宅時間が遅くなり時々女房にチクチクと苦情を言われるようになりましたが、一番困ったのは酒代でした。
十五年程前のことです。麻雀でなんとかと思ったのですがいつもカモられ、競馬に手を出しで穴をあけ、一ヵ月近く″立ち飲み″に通った後、一人で野毛のある飲み屋に入り二階で飲んで一階のレジで会計、と思って階段を降りました。そうしたら偶然に他のお客のサラリーマンの六人グループも下ってきて彼らが先に勘定を払った時私もその仲間だと思われ、グループと一緒に。「アリヤトーゴザイヤシタ」の大声で店から押し出されました。ビール三本とトロ刺と天盛がただになってしまったのです。
その時は「悪かったな」と思ったのですが、酒代に困って背に腹は変えられず今度は作為的にやってしまい、それがうまくいってしまったので癖になりチョコチョコその手を使い、結構毎日裕福に酒を飲んでいます。
先月の事です。野毛の「萬里」でその手を使い、何食わぬ顔で五人組と一緒にレジを通過したら二階の従業員の女のひとがダダダーつと降りて来て「お客さんお勘定がまだですよ」って言われてしまい、ついにバレタカと勘定を払ったのですが、考えてみるとその日はやけに店員が愛想良かったのです。そして勘定の後店の中を振り返ると、二階の階段の上と一階のコック場の中から全従業員がニコニコと私を見送っており、「もうこの手は『萬里』では使えない」と観念し、今月は三回も「萬里」に来てしまった事が敗因だ、と反省しました。でも私は中華が好きなんです。
そしてまだ野毛とその周辺に数軒、私がお世話になっている店があるので、それぞれを今まで以上に慎重に大切にしてゆきたいと思っています。
初出:ハマ野毛創刊号(92.3.10)
Photo by haru__q
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